ええ〜今回は、昨日姫に“雷神隊々長”の称号つけてもらったよ記念ということで(また今日、元の称号に戻しちゃいましたがw)、自分のキャラ名の由来である、立見(鑑三郎)尚文の略歴をご紹介。

 長文かつ、リネとは全く関係ない話ですが、まぁご勘弁をm(__)m 興味ない方はその関係の部分は、読み飛ばしてくださったほうが、よろしいかと^^;
 

 立見鑑三郎、後の尚文。1845年(弘化2)桑名藩江戸屋敷の町田家に生まれ、後に立見家の養子になった。
 桑名藩主松平定敬が京都所司代となると、定敬に従い京詰めとなる。第一次長州征伐の際には、長州に軍事視察に出かけている。
 1868年(慶応4)鳥羽伏見の戦いに参戦。しかし、徳川慶喜の大阪城からの脱出により撤退。その頃、桑名はすでに薩長軍の占領下であったため桑名には帰れず、江戸に向かった。 江戸に帰って後、桑名軍を指揮し旧幕府軍と共に宇都宮城を攻め落とす。その後、桑名軍を率い松平定敬のいる越後柏崎へ行き、そこで桑名軍の再編により、雷神隊の隊長に選ばれる。 北越戦争では、朝日山攻防戦において時山直八率いる長州奇兵隊を撃破した。 その後、北越後、東北と転戦し、優れた用兵手腕で、薩長軍をしばしば敗走させ、「桑名に立見あり」と恐れられる。しかし、時勢には抗しきれず、出羽庄内にて降伏する。
 維新後は、裁判所の書記官に就任。しかし、1877年(明治10)西南戦争が起こると、新政府の求めに応じ、旧士族を編成し参戦。仇敵西郷に止めを刺す。西南戦争の功により、陸軍少佐となる。
 1894年(明治27)の日清戦争では第十旅団長として朝鮮に出征。この時の功により、後に佐幕藩出身者としては異例の、男爵の爵位を受ける。又、弘前第八師団長として出征した日露戦争では、黒溝台会戦おいて、10倍近くのロシア軍相手に、酷寒下の死闘を繰り広げ、日本軍を全軍崩壊の危機から救った。その功により戦後、陸軍大将に昇進する。
 1907年(明治40)3月6日東京にて没した。享年61歳であった。その葬儀には、明治天皇から供花料も寄せられたという。 


 ざっとこんな感じです。 まぁ、ちょっと美化してるかな^^; しかし、日露戦争において、彼の弘前師団の活躍がなければ、日本は黒溝台会戦の時点で、敗戦という結末を迎えたのは、確実です。

 そして、そのことは日本がロシアの植民地、良くても衛星国となることを意味します。(それがどういう意味を持つかは、東欧のポーランド辺りの歴史をひも解いてみればわかるはずです←悲惨ですtt) それを防いだ彼は、日本の救世主といっても、いいんじゃないかなぁ。

 まぁしかし、逆にそうなったらなったで、後の軍部の独走はおこらず、従って悲惨な太平洋戦争は起きなかったかもしれません・・・ やはり歴史を考えるにあたって“If”は禁物ですなw

 リネのほうは、あまり長時間ではありませんが、例によってエルモアで狩りしてました。20Kほど貯金を増やして終了です^^
 
 それと明日から1週間ほど、ちょっとリアルが忙しくなりそうです。ですから、リネも普段ほどには出来ないかもしれません。まぁたまには、リネから離れた生活をするのも、リフレッシュできていいかなぁとも思ってます。そぉはいっても、やっぱり接続しちゃうんでしょうけどねw

 そういう訳ですので、日記の更新も、ちょっと途切れがちになるかもです。決してサボってるわけではありませんぞwww

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